躁うつ病に嫌気がさしてきた。
はじめに
昨日は僕の誕生日だった。34歳になった。Facebookでは誕生日が表示され、いくつかの祝福の言葉をいただいた。やれやれ、歳を重ねても気軽に喜べない歳になってしまった。複雑なお年頃である。
ここのところ、高校時代の友人から電話がかかってくることが多い。僕の高校時代は躁うつの病相が強くでていて、不安定な日々の連続だった。
良き友に会えた高校時代
そんな僕でも一生涯の友だちと呼べる仲間ができた。何故なのか不思議に思ったけれど、3年間同じクラスという環境のおかげかなと感じる。僕は地域の工業高校へ通っていて、ぼくの科はひとつのクラスしかなかった。
僕の通っていた科は、県内随一の優秀な科であった。がり勉がたくさんいる。そんなところへ通うことになったのは、中学時代は頭のよいほうだったからだ。躁状態だった。受験勉強を躁のパワーでこなしていた。
入学後間もなくうつへ
しかし高校に入学すると、間もなくうつになってしまい、勉強についていけなくなる。高校1年生のころは最悪で、学校へまともに通えない状態だった。朝起きることができない。たちまち遅刻常習犯になってしまった。
その出席日数の少なさから、進級が危うくなっていたほどである。友だちは1人もできなかった1年間だった。孤独な高校生活を送っていたといえる。
高校2年目に躁転
そんな僕にも転機が訪れる。ギリギリの出席日数と単位で高校2年生になった僕は、躁転した。
たちまち明朗活発になり、ヒトと交流しはじめた。
やっと高校生活で初めて友人ができた。そのときの交友関係が今でも続いている。
こうやって書いていて当時をあまり思い出せないことに気付いた。高校時代は17年前である。それも当たり前かもしれない。高校生活について書こうと思ったけれどやめておこう。
みんな父親になった
高校時代の友人たちはみんな結婚している。昨日、「息子が生まれたぞ」という友人の一報が届いた。彼にとって最初の子供だ。それと同時に、子供がいないのは僕だけになった。
みんな父親になった。34歳にもなれば子供も生まれる。置き去りにされた僕はなんだか寂しさを感じる。
躁うつ病が寛解していない今は、子供や結婚のことを考える余裕がない。普通に仕事をして生活していくのに精いっぱいである。
丈夫なカラダが欲しい
僕は自分を情けないとは思わない。むしろ病気で生きづらい中で頑張っているなと感じている。
しかし、健康で仕事を頑張り、家庭を支える友人の姿をみると、うらやましく思う。
丈夫な体が欲しい。
誕生日を素直に祝えるのは寛解を迎えてから
精神障害者手帳を持っている僕の健康状態は「障害者」と呼べるだけの不健全さをもっている。ヒドいものだ。
躁うつ病は「就労不可」のヒトも多い病気だ。僕は、もしかすると仕事は無理なのかもしれない。幾度となく荒波が押し寄せてきて、のまれそうになっている。
誕生日を素直に祝えるようになるのは、寛解をむかえてからだなと、切なく思った。