アウトサイダー的Facebook論
はじめに
僕は友だちが少ない。
どうということはないが、SNSで寂しい
だからといってどうということはない。けれど、Facebookではいいね!の数が少なくて悲しい気持ちになる。どうしてあのSNSはリア充を尊重するのだろう。しかし、僕のように友だちもいないのにFacebookをやっているヒトも少ない。つまりほとんどのヒトがやっていない。
友達自慢大会をするFacebook
Facebookは、なんだか友だち自慢大会のようになっている感じが拭えない。あのノリで突っ走っていくのだろうか。
いいね!が少ないのは覚悟しているけれど、味方が少ないようにも思えてなんだかやりにくい。
ブログのような長文を書くわけにもいかず、Twitterのような気楽さもない。出てくる友だちのフィードはいいね!がたくさんついたリア充自慢…。
アウトサイダー
あれ、僕はなぜFacebookをやっているんだろう。完全に反対勢力ではないか。リア充ではないし、いいね!がもらえるわけでもない。客観的に見るとすごい浮いているんではなかろうか。
しかし、アウトサイダーだと思えばカッコイイ。横文字はなんて魅力的なのだろうか。
だいたい、障害者枠で働いているのだからアウトサイダーなのは当たりまえだ。封建的な日本社会のノリに合わせる必要はない。Facebookはリアルなヤツがのさばるネット空間といえる。僕のようなネットを主体に動き回る人間ほどやりにくいSNSだ。
インターネットはかつて、仮想空間だった
もともとネットは「相手の正体がわからない」という前提の上で成り立つコミュニケーションだった。全てのヒトに平等であったのである。自分の過去を隠して、本音を話せるという画期的な場所だ。地位も立場もない。
そういった点では原始的だと非難することもできる。2ちゃんねるなどはいい例だろう。2ちゃんねるは立場にこだわる人間には使いにくいものだ。無法地帯のようである。
けれど、情報はディープなものが出回っている。まさにアウトサイダーのたまり場だ。
仮想空間は現実空間になった
それに反して、立場を明らかにしてコミュニケーションをとるサービスがFacebookである。僕にはいささか「ていの良い話」ばかりで刺激が足りない。
こんな投稿があった。
”海に花火に来ていた集団がゴミを捨てていった。
そのゴミと車のナンバーを写真に収めて「シェアして拡散して下さい」”
といった投稿だ。なかにはコメントで「人間のクズですね」と書いてある。
僕のようなひねくれ者には「だから何だ」としか思えない。書いた本人は正義の鉄槌でも振りかざしているつもりなのだろうか。
話題がどうにも正義、正論臭くて嫌なのである。
現実では建前で語る
そんなのいいねするしかないじゃないか。本名なんだから。「ゴミ捨てていく奴らの気持ちも分かるよ」とはならない。そういうネタがつまらない。
立場にがんじがらめで本音がいえないのである。Facebookはアメリカでは大ヒットかもしれないが、本音と建前を使い分ける日本では、そこまで普及していない。はっきりいって建前ばかりで疲れるだけである。
こんな記事があった。
フェイスブックの「いいね!」 7割は「建前」で押す
という記事だ。
これはなるほど的を得ている。
僕はネットというものは本音を話すものだと思っている。直に会っているわけでもないのに建前もへったくれもない。建前とはわるくいえばウソである。僕はウソをつきたくない。
日本社会では、本音と建前はコミュニケーションとして必要である
ただ、バカ正直に生きれば友だちが少なくなるのが日本社会である。バカ正直のとおりバカ扱いされるのがオチだ。できるかぎり本音と建前の世界に生きて、賢く立ちまわることがコミュニケーションとして必要である。
僕はコミュニケーションが苦手なんだなとFacebookを見ていると分かる。だから悪いというわけではけっしてないけれど、いいね!というシステムが数を表示している限り、僕はアウトサイダーでいつづけるのだと思う。