Sunny Sometimes Bipolar Disorder

躁鬱病(双極性障害)筆者の日々を綴ります。連絡はTwitterまで!Twitter@hattix0828

Sunny Sometimes Bipolar Disorder

躁病による過去の過ち

まえがき

今日は5時間しか寝ていない。睡眠薬のロヒプノールを抜いた結果、早期覚醒してしまった。
でも、何も疲れを感じない。おかしい。調子が良い。おかしい。
何だか書いていて混乱してしまいそうな文章だ。躁うつ病では、調子が良いと躁かもしれないと、気をつけなければならないのだ。
躁は、やっかいだ。僕は何度も失敗をしている。

22歳、発病

最初の大きな失敗は、次のようなものだ。
僕はそのとき22歳だった。仕事の人間関係に不信をいだき。転職をすると決意した。
調子は良かった。ただ、毎日4時間睡眠だった。それで新しい会社でも過ごしていた。
転職先の会社は、まずは研修を受けなければいけなかった。この研修は軍隊式のようなもので厳しいものだ。

研修を終えて、晴れて正社員となる。

僕はいつもの様に4時間睡眠で研修先に向かっていた。はるか遠い長崎県まで新幹線を使って移動してきた。慌ただしく研修が始まる。

異変は研修の最初の夜に起きた

僕は睡眠薬のマイスリーをたくさん持って研修に望んでいた。なんせ眠れなかったからだ。とはいえ、4時間しか寝ておらず、今日は新幹線の移動と、研修初日という過密なスケジュールをこなし疲れている。
マイスリーを飲んで目をつむる。小人が見えた。マイスリーには幻覚作用があるのだ。僕にはそれだけの効果だった。2錠、3錠、いくら追加しても幻視が見えるだけで眠くならない。

 

うまい煙草

しまいには、寝床を抜け出し、建物の外へ出て、煙草に火をつけていた。
煙草を吹かしながら「一睡もできないようでは研修に耐えることはできないだろう。明日、帰るとするか」と考えていたのを思い出す。うまい煙草だった。

一睡もしないまま僕は朝をむかえた。教官の方に「僕は不眠症です。昨日、一睡もできませんでした。なので体が動かず、研修についていけないと思います。帰ります」
と、告げた。
教官たちは淡々をした態度で、「仕方ないな、じゃあ帰りなさい」と言った。

帰路に小倉観光をする

研修の土地は長崎だった。僕は中部地方に住んでいる。旅行に来たかのように、気分が昂っていた。
研修を1日で脱落したその日。僕は小倉の街へ寄り道して、裏通りを散策して、本場のとんこつラーメンを食べていた。
ようするに、疲れなど何もなかった。小倉観光が楽しかったのをよく覚えている。新幹線でも寝なかった。

躁転していた


僕は会社に勤め始めた一ヶ月前から、4時間睡眠で仕事をしていた時、すでに躁になっていたのだった。
会社に着くと、伏せてあった病気のことを上司に告白し、辞表を書いた。
上司は研修を1日で帰ってきた僕に「これで、とりあえずはお別れだ。けれど、何かあったら頼ってきなさい。力になるよ」という。思慮深い言葉をくれた。
部下である僕は、上司の面子を完全に潰したわけなのに、この言葉である。これには深く感動したのを覚えている。

 

躁から鬱へ


以上の出来事は、躁の状態の出来事である。躁のときは不眠で仕事をすることができる。
なので、実際は研修をこなすことはできただろう。ただ、僕は躁うつ病の自覚も知識もなかった。
診断も「うつ病」だった。
眠れないことにビックリして、体力に不安を感じて帰ってきただけだった。その後は、失職のためにひどい鬱に転じることになる。

ADHDと躁うつ病


躁うつ病の診断が出るのは遥か先、10年後だ。それだけ診断を下しにくい病気なのだろう。ADHDであることは早くから診断されていた。
僕は躁うつ病の診断を聞いて、病状を理解してから過去の失敗が何故そうであったのか、納得することが出来た。自分が分かった気がした。

 

波をコントロール出来ない

しかし、いまだに、自分がどの波にいるのかは判断できない。
今日、寝れなくて元気なのが躁なのか、ただの偶然なのか分からなくて不安だ。とても不安だ。
6月1日に仕事を始めてから、僕の行動が慌ただしくなってきている。僕は忙しいことに生きがいを感じはじめている。
しかし一方で、自分が躁なのではないかという疑念を振りはらうことができない。
躁うつ病にはこういったジレンマがある。

 

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